今年の夏



 机の引き出しを開ける。探さなくても分かる、指輪のある場所。
 いつも目に付かないのはきっと、意識的に目をやらないからだと気が付いてはいた。目をそむけているという事実からも目をそむけるようにして。

 忘れたわけではない。決して。
 忘れられるわけがないのだ。そう簡単に。

 それぐらいの想いだったなら追い詰められる事もなかったかもしれない。今も、あれからずっと。遠く離れたままでも耐えられたのかもしれない。
 ずれも歪みも許容できるほどのゆとりが、あの頃の私にあったならば。

    まじになんか、なるもんじゃないな

 自嘲気味に、苦笑する。笑うしかないのだ。もう。
 失われたものは戻らないから。

 もう戻らない。
 残っているのは、君がくれた指輪だけ。故郷を離れるあの時、不思議そうな顔をする君を説き伏せるようにして買ってもらった安い銀色の指輪。
 引き出しの左端にある小さな箱を開ける。ボタンやネックレスや失くしやすい様々に混じって、指輪は少し、くすんで見えた。

    銀だからな…すぐ酸化しちゃうんやな…

 取り出して、軽くこする。輝きは簡単には戻らなくて、少し哀しくなった。
 あとでジュエリークロスでちゃんと磨いてあげよう。捨てることが出来ないのならせめて。綺麗に光ったままで持ち続けたい。
 戯れに左手の薬指を通してみる。外したのはもう随分前。まだ入るかな、と思って滑らしてみるとちゃんと、ぴったりとはまったことに何故か、呆然とした。
 指輪のサイズなんて早々変わらなくても普通だけれど。


 あれから、色々な、本当にいろいろな事が変わったというのに。今。薬指にはまったリングは意外なほど違和感がなく。ずっと、ずっと長い間この場所にあり続けたもののようにさり気なく馴染んで。

 「バカみたい…」

 呟いた声が、ひとりの部屋にそっと浮く。
 本当に、バカみたい。
 急に視界が歪んだ事も、ぱたりと落ちた雫の事も、認めたくなかった。今更未だに泣いているなんて、認めたくはなかったけれど。
 手の平に落ちていく水滴が、すぐに温度を奪われて冷えていくその冷たさが、私を諌めるようで。慰めるようで。

 そのまま身動きもせずにじっとしていた。誰もいない部屋で、誰にも何も聞かれることなくただ静かに。
 泣いてるなんて。


 どうしよう。私。今年は帰るというのに。
 君がいる街に。君といた街に。もうすぐ帰るというのに。
 堅く左手を握り締める。堅い指輪が指に食い込んで、少しだけ痛い。それでも構わず強く握り締める。
 窓の外ではまた、弱い雨が降っていた。包まれるように薄暗く霞んだ景色。
 ガラスに付いた水滴が時折滑り落ちるその軌跡を、ぼんやりと目で追いながら。
 

 ああ。もう少し。強くならなくては。
 せめて。もしもあの街で君と会っても、目の前でちゃんと笑えるくらいには強く。
 君には何も悟らせないくらいには自然に。
 最後なのだ。きっとこれが、最後なのだから。

 瞬きのたびに涙が頬を伝い落ちる。とまらない。今はとまらないけれど。
 ぼんやりと窓の外を見遣った。不確かに歪んだ視界に写る空の色は、白々と薄い。
 大丈夫。まだ少し。一面青く染まるまでには、まだ少しだけ時間がある。

 今年の夏が来るまでには、まだ少しだけ猶予があるから。


≪END≫

BACK







遠い空INDEX   

サイトTOP   


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送