二人乗り その日は珍しく、夕方まで雨が降っていたから、自転車は置いて来たのだろう。駐輪場を素通りして歩いて帰ろうとする彼女に、乗っていきますか?と声をかけたら、ひどく驚いた顔で立ち止まった。 「え?」 「だから、自転車。二けつで」 「あ、あぁ」 「これ、ステップ。あ、乗ったことなんかないですか」 僕はステップを後輪に取り付けようと、一旦降りて後ろにまわる。 「あ、大丈夫。わかる」 「え?」 彼女は一つを取り上げて、僕とは逆側にまわって屈んで取り付けた。 「いきますよ」 「うん。重いよ」 「大丈夫ですよ。いつも男乗せてるし」 あらまぁ、と彼女はくすくすと笑った。 「うまいですね」 「何が?」 「乗るの。結構、初めは難しいじゃないですか」 「そうかな」 「よく乗るんですか?」 彼女はその質問には答えずに、少し背をそらしたのだろう。つかまっている肩が軽く後ろに引かれた。 「ステップってさー、まだ売ってるの?発売禁止やろう」 「売ってますよー。御園は」 「そうなんや。駅前の店?相変わらずね、この街は」 「よく知ってますね」 「昔っから、皆そこで買ったんだもの」 ふふふ。あー、懐かしい。小さく呟いた彼女の声が、風に混じって微かに聞こえた。 「片山さんて」 「何?」 「本当はいくつなんですか?」 「だから、二十歳、くらい、に見えるんでしょう?」 彼女はいつだってふざけて。 「でも、嘘でしょう?」 「いいじゃない別に」 「そうですか」 「そうよ。いいじゃない別に。そんなこと、どうだって。ねぇ、どうして、急にそんなこと気にするの?」 僕は、彼女に倣って答えなかった。別に、本当に、どうだっていい気もする。 夏の長い日も落ちて、柔らかく夕闇が訪れる。空気はまだ暑くても、風が適度に涼しくて、少しずつ虫の声も聞こえる。独特の夏の夜は確かに今夜も近づいてきて、僕は少しどきどきする。 彼女は今至近距離真後ろにいて、手は肩に乗っていて、このまま突っ走れば、どこにでも連れて行ける。彼女が飛び降りれない位のスピードで走れり続けられるなら、その間彼女は僕のものだ。 心なしかペダルに力を込める。 彼女は僕の心を覗いたように、絶妙なタイミングで、若いねー、と言った。 「あなた、彼女おらんの」 「いたら、こんなことはしてませんね」 「そうよねー、おったら彼女乗せて走ってるわよねー」 「片山さんは」 「え?」 「いないんですか」 「さぁ」 でも本当は知っている。きっと彼女には彼氏がいて。 「ずるいですね」 「そうよ。ずるいんよ」 「ほんとに」 「分かってるなら、降ろすといいよ」 「そんなこと、しませんよ。危ないし。御園は治安悪いんだから」 「大丈夫よー襲われた事ないもん」 彼女はけらけらと笑う。夕闇に包まれても、きっと怖いなんて言わないんだろう。 とてもとても怖くても、この人はそんな事言えないのだろう。 僕は右手を離して自分の肩にある彼女の手に重ねた。彼女はびくっと一瞬身構えたけれどそのままじっとしていた。 「私……」 「はい?」 「本当は彼氏がいるわ」 「知ってる」 「そう?」 「うん」 「じゃあ」 「時々変なとこで正直ですね」 「え?」 「いつもふざけてばかりなのに」 「仕方ないのよ」 「仕方ないんですか」 「そう、どうしようもないのよ」 僕には見えないけれど、きっと彼女は今、薄っすらと笑っているのだ。 ただ、感情を殺すように、そっと、笑っているんだ。 「あなたの歳のことと同じです」 「え?」 「俺は別に、どうだっていいです。そんなこと」 僕は彼女の手を前に引く。背中に体重が柔らかくかかって密着する。少しバランスを崩して彼女が足を乗せなおす。 その体重の乗せ方も、バランスの持ち直し方も、なんだか落ち着いていて。あー、乗り慣れてるんだなぁと変なことに感心する。 きっとそういう日々が過去に。 彼女は誰かの自転車の後ろに。 乗ってこの街を走っていたんだ。 |
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