時田君 日付調整完了。夏を待つばかりの日々は、細かくて慌しい予定になった。 テスト前恒例の多量のノートコピーの交換約束の手はずもつけつつ残りの授業を消化しながら、空き時間のほとんどは、1ヵ月半の無収入に対応すべくやたらと働いていた。 高台にあるキャンパスの、学食の大きな窓からは、広がった空と、ずっと遠くに海が見える。相変わらずくすんで、霞んでよく見えないけれど。 七月に入っていた。梅雨はまだ空けない。 気休め程度にレジュメに目を通しながら空きコマの三限目をだらだらと潰していると、向かいにいた時田君がふいに顔を上げた 「片山。夏はどうする?どっか行かん?」 「え?」 「やっぱ海とかー。別に山でも温泉でもええけど。やっぱ海やろ。夏やし」 なんの話だろうと、ぼんやり思った。 実家にも電話をしたし、バイトも長期の休みをもらった。荷物は段ボールにつめかけで、あとは、そうだ、電車の切符も早めにとらないと… 「片山?どうしたん?」 時田君が小さく首をかしげる。その仕草が随分と無防備で、ようやく、私のやらかした随分な事実に気付いて唖然とした。 顔を上げて、時田君と目を合わせる。時田君が小さく笑って、なんだか居たたまれなくなった。 「…ごめん。私はいかれん」 「え?なんで?」 「今年は実家に帰るんよ」 「大丈夫やで。日程はあわせるし」 「そうじゃなくて、ずっと」 「ずっと?」 「夏休み一杯、ずっと」 時田君は、純粋に不思議そうな顔をしていた。 「なんで?それ、帰らなあかんの?家族行事とか?」 「そうじゃないけど」 「じゃあ、ええやん。こっちで残って、遊びに行こうや」 「うん。でも」 「ゼミのメンバーで旅行行こうって話もあんねんで。皆行くし、だから片山も行こうや。行くやろう?」 時田君が、穏やかな笑顔のままで引き止める。あくまで穏やかに。でも、承諾を信じて疑わない風に。 言われれば言われるほど何故か、帰らなければと頑なに思った。 ごめん。私はいけない。そう強く言いきると、彼は気圧されたように口をつぐんだ。ひどく予想外という顔をしていた。 そうか。 強く意見を通すのも、頑なに反対を示すのも。 もしかしたら、初めてなのかもしれないな。 私はずっと、風に靡くように任せていたから。 強く強く主張したい願いも、すっかり遠ざかってしまっていたから。 「なんで?片山いつもまともに帰らんやん。今年最後やから、俺、ずっと一緒におりたかったのに」 「うん…最後だからね…」 時田君は、奇妙なものなど見るような、透明で不躾な目をしていた。 そうか。この人は。本当に知らないんだ。当たり前だけれど。 古ぼけて、薄汚れて、どこにでもあるような校舎の中で。彼に出会ってはじめて目にした色付いた鮮やかな景色の中。強く熱く、発光するように駆け抜けた日々のことを、この人は何も知らない。 伝えることは出来ないだろう。 きっと、伝わることは何もないはず。 離れても、消えても、なおぼやけない残像が今も私を繋いでいる。銀の指輪よりも強く強く。鮮明で途切れない綺麗なロープが、私を緩やかに繋ぎとめている。命綱のように。 どれほど薄れても、どこまで遠くに行っても、きっと帰ってこられるようにと。 何か、失くしてはいけないものが、断ち切ってはいけないものが、そこにはあるような気がした。 原点のようなもの。あの頃。何も持っていなかった私に、ゆっくりと確かに積み重なって、今も静かに沈んでいるもの。 彷徨わないように、漂流しないように、碇のように深く沈んで、ずっと隠れていた何かが、今、また、揺れている。存在を主張するように、細かく、かすかに、でも微熱を持って震えている。 何故だろう。呼んでいるような気がするんだ。 帰らなければ。 戻らなければ。 そうしたら、もう一度強く光を放てるだろうか? |
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