階段教室 4限最後のチャイムが鳴った。 がたがたと一斉に席を立つ、慌ただしい人の流れを、後ろのほうから眺めていた。すり鉢状の巨大な階段教室は、大学に入ってまず初めに目新しかったものだ。 真面目な学生が前から順に席をつめるのを不思議な気持ちで見ていた。私はいつも、ずっと後ろの方に座る。マイクを通した声はここでもよく聞こえたし、ノートに丸写しするような板書もあまりなかった。 前の方の過密度に比べると後ろの方は随分と空いている。広々と静かで、それなのに飽和しているような柔らかな閉塞感。巨大空間に一人浮いているような錯覚が、気に入っている。 つい先日、内定を貰った。物凄く早いほうではないけれど、割と早いほうだった。 とりあえず落ち着いたので、リクルートスーツをクリーニングに出した。 まだいくつか残っている単位は、前期のうちに取り切ろうと思う。春休みを挟んで久々にまともに参加した講義はやっぱり、ゆるゆると眠くて、それがなんだか懐かしかった。 「片山」 どこかで呼ばれて、その声で誰だかは分かる。緩慢に目を上げて姿を探すけれども、見つける前に肩を叩かれた。 「来てたんや。今日はもう来こんかと思った」 「うん」 「あとで、電話しようと思っててん」 もう聞き慣れた柔らかな言葉は好ましく思う。 目の前の存在も。きちんと好ましく思う。 だから、大切にしなくては。 本当は昼から来ていたことは告げずに少し目を細めた。笑ったように、見えたと思う。 促されて立ち上がる。 いつの間にか、きっちりと閉じて完成していたはずの空間は、跡形もなく消えていた。 「腹減ってる?」 「減ってない」 「今日はバイトは?」 「ないよー」 「ほんならちょっと梅田までいこうやー。俺、買い物したい」 「いいよ。このまま行く?」 「あかん?」 「ん、平気」 時田君は笑って、私の鞄に手を延ばす。 「相変わらず重いなー」 私は苦笑して、反動をつけて鞄を肩にかけた。ほとんど、担ぎあげたかんじ。 荷物が多いのは、もうずっとずっと昔から。 「片山はどっか行きたいところある?」 「ん?別にない」 「じゃああとでどっか飲みに行こう」 「うん。いいよ」 「それから片山の家いっていい?」 「いいよ」 来たら泊まっていくかな。いくだろうな。 時田君は自宅生で、大学へは通える範囲だけれども結構遠い。下宿の私はもちろん大学のそばに住んでいて、登校するなら断然楽なのだ。 明日は私は朝からバイトだからちょっと面倒だなと思ったけれど何も言わなかった。 別に、言わねばならないほど徹底的に面倒ではなかった。 言うことのほうが面倒なんだよな、なんとなく…そう思って、苦笑する。 昔みたいだ。古くてぼろっちかった高校の、1年生の教室で彼に会う前。 何も言わなくて、全て流して。 波に揺られ続ける海藻のように、無抵抗でいるのは楽だった。そう、昔と違うとすればきっとそれだけ。ずっと楽だということだけ。 自分の意思とか、願いとか。そういう主張がまた、ぼんやりと見えなくなっていた。だから聞かれてもいつも、答えられない。言わないんじゃなくて、本当に何もない。 凪いだように動きにくい感情が横たわっていて、猛烈に悲しくもなければ我を忘れるほど嬉しいこともない。 概ね平穏。平穏は幸福に繋がるのかな。概ね幸福。 でも、嘘かも。 物凄く哀しいことは、凍結してしまい込んだだけかも。緊急避難的に。 |
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