八月



 高3の夏、図書館で見つけた綺麗な人を、僕は好きだと思った。
 声をかけて、名前を聞いて、自転車の後ろに乗せたけれど。
 僕は彼女のことを、何も知らない。

    ☆

 8月の日差しは酷く強くて眩しくて、温暖化のせいか毎日はめっぽう暑い。35度なんてざらだ。夏季講習なんてものが急に始まっても受験生の自覚は皆無で、それでも暇に任せて予備校に行けば「必勝」なんて鉢巻を貰ってしまう。
 手にとってまじまじと見つめてみても笑いさえ込み上げてはこなくて、気分は白けて、薄ら寒くて気持ち悪い。

「必勝って、なんだ?」

 今更。夏は終わったんだ。梅雨明けと同時くらいに。地区大会の予選敗退で。
 遥か彼方に冗談のようでもちゃんと目指したはずの甲子園は、まだ、始まってもいなくても。
 ま、そんなもんだろうという周囲の感想がなんだか痛かった。もっとちゃんと応援してくれてもいいじゃないか。一緒に、夢くらい見てくれたって。
 終わったんだ。いくら暑くても。憧れのない夏なんて夏とは呼ばない。意地でも。ただの8月だ。暑くてだるくていいことなんて一つもない、灰色の8月。

 受験かー。

 ふーっと長く重くため息をついても、悲壮感が襲ってこない。多分重症なんだろうと思う。受験生として、この実感のなさは重症。
 
 終業チャイムが鳴り、遠くの席から坂内がよって来る。
「竹田―、かえろーぜー」
「おー」
「帰りにさー、何か食ってこうぜー、ラーメンとか」
「あちーなーそれ」
「じゃぁ何よ?」
「冷やし中華?」
「じゃぁラーメン屋じゃん。同じじゃん」
 坂内は笑って、そのまま教室の出口に向かう。僕は必勝鉢巻を丸めてかばんに突っ込んで、後を追った。

 高校よりもだだっ広くて無機質な教室。安っぽく軽くて傷も悪戯書きもない机といす。高い天井、多すぎる蛍光灯。フル稼働したクーラー。

 これは優遇というのか?

 受験生、それだけで、僕たちはどこまで特別なのか。
 どこが特別なのか、分からないけれど。
 グラウンドを転がる泥だらけの後輩を遠めに見て、あぁ、もう、あんな風には走れない、と思ってしまう。

 たった、2週間のはずなのに、な。畜生。



予備校を出たところでふいに声をかけられた。
「よお受験生」
「ああ!先輩こんにちは!」
「どうだー調子はー。最初の頃はやばいだろー偏差値低くて」
 がっちりした体に不似合いな人懐っこい顔をして笑っている滝先輩は、僕たちの4つ上の代、今でも伝説のチームのキャプテンだった人だ。

 中学時代有名だった選手は、みんな私立が引っ張っていってしまう。それでなくてもまともな監督もいない県立高校。
 それまで公式戦全敗だったという我が校が、突然地区大会ベスト8まで行った奇跡の年。僕はまだ中2だったけれど、毎試合見に行ったから覚えている。
 うちの県は激戦地区で、県立が勝ち上がることはめったにない。僕はあの夏に志望校を決めてしまったようなものだった。

 先輩は、1浪して入った大学でも体育会野球部に所属していて、ちょくちょく練習を見に来てくれる。まともな監督のいないうちの高校の野球部が、ここ数年、それでも多少なりとも順調に強くなってきたのは、先輩が来てくれるようになってからだ。

「それよりどうなんすか新チームは」
「あ〜まだなぁ。始まったばかりだからなんとも」
「秋の大会は?」
「秋かー、秋はまだちょっとなー。わからんけど。ま、お前らもそんなもんだったし。そんなことより成績はどうなんだよ?浪人は厳しいぞー?」

 まぁそんなことを言ったって、僕は十中八九浪人するだろう。運動部所属だった男子の合格率が、丁度そのくらいだからだ。

 うちの学校は、一応進学校を謳っている。それなのに、教師たちの受験指導はいたって緩い。3年の二学期にもなると午後はほとんど選択授業ばかりでほとんど毎日半日登校。駅前に乱立する予備校に勝手に通って勝手に受かってくれという感じだ。

 東大にも京大にも特に送り込めるわけではない。それでもその下のレベルには数人送り込む。もう一つ下のレベルにはかなりの人数が入る。半分以上浪人するが、大学に行かないやつはいない。
 半端な学校なのだ。半端で、適当で、まぁ、緩くて自由で楽な学校だった。

「お前らもう帰り?」
「そうです。ラーメン食って」
 坂内と先輩は談笑を続けている。僕は時間が気になっていた。ラーメン屋に行くなら早く行って解散したい。図書館は7時には閉まってしまうのだ。別に冷やし中華に拘ってるわけでもない。
 先輩には悪いけど坂内を残して先に行こう、と思って、チャリに荷物を積みなおしたところでようやく坂内が振り向いた。

「なに、お前、急ぐの?」
「あー。このあと図書館行くから。先輩、すいません、俺先に行きます」
「マジで?ちょっとまてよ、なぁ、ラーメンは?」
「先輩と食べて」
「おう、いいぞ坂内、奢ってやるよ」
「え?まじすか?」
「じゃ。失礼します」
 お〜、がんばれよ〜と、無邪気に手を振っている先輩に一礼して、不思議そうに振り返っている坂内を尻目に、僕は自転車を走らせた。

 僕には僕の事情がある。
 まぁ、受験生らしからぬ多少浮付いた事情ではあったけれども。
 必勝鉢巻に気圧されて一瞬忘れていた自分が馬鹿だった。
 灰色の8月の真ん中で、唯一色のついた存在は。
 
 僕は真剣に自転車を漕ぐ。



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