放課後



 職員室から部室に向かう途中に3−5の教室はあって、俺はいつものように無意識に中を覗き込んだ。扉は半分ほど開いていて、電気は消えていて、教室は橙色に沈んでいた。
 ふと目の端を何かが掠めたので何気なく追うと、グラウンドに面した窓の端一つだけが開いていて、カーテンがゆらりと翻った。

 彼女が開いた窓に凭れるように立っている。
 ああ、まただ。扉が開いていたから、いるかもしれないとは思っていた。
 後姿で顔は見えないけれど、あれは絶対に彼女だ。
 
 部長の俺はいつも部活の後、職員室に倉庫の鍵を返さなければならなくて、だから毎日同じ時間に教室の前を通り過ぎる。そして、度々、彼女の後姿を見かける。
 グラウンド側の窓の一番左。グラウンドはよく見えて、グラウンドからは死角になる場所だと、彼女も春まではグラウンドにいたから知っていたんだろう。

 3−5は俺の教室。そして彼女の教室。

 早く着替えて帰らなければ、と思いながら、俺は誘われるように扉に近づいた。今日に限って。いつもは静かに通り過ぎるのに。
 夕焼けがやたらに鮮やかだった。彼女の後姿が黒く影になって、深く沈んでいるように見えた。
 俺は半分ほど開いた隙間からそっと教室に入る。履いたままだったバッシュが少し鳴った様な気がしたけれど、それでも彼女は振り向かなかった。
 カーテンが揺れている。一面橙に染まっている。背中に降ろした髪が夕日に透けて、金色に見える。ああ、少し茶色がかっているんだ、と初めて気付いた。

 いつも何を見ているか、なんてことはとっくに知っていた。だから今まで声なんかかけなかったのに。
 踏み込んでしまった事にすでに後悔を始めていたけれど、もう上手く引き返せもしない。声をかけようとして、でも、一向にこちらに気付かない彼女になんて呼びかけたらいいのか分からなくなって、俺は持っていたボールを大きく一度弾ませた。
 がらんとした教室にそれは思いのほか大きく響いて、俺は内心少し焦ったのに、ようやくゆっくりと振り向いた彼女は驚いた様子もなくて、だから、もしかしたら、初めから気付いていたのかもしれない。

「おつかれ。もう終わったの?」
「そう。鍵返してきたとこ」
「バスケ部は早いね」
「体育館がしまっちゃうんだよ」
「そっか」
「お前は?」
「もうとっくに引退したもの」

 そんなことは、知っている。彼女が度々夕方の教室に佇むようになったのはそれからだということも。

「ソフトボール部、弱いもんなぁ」
「まぁねぇ。練習はしたんだけどなぁ」

 誤魔化すように少し笑って、彼女はまた窓の外に目をやった。その仕草で、彼女がもう会話を打ち切りたがっているのが分かってしまって、俺はどっと淋しくなった。

 邪魔なんだ、俺は、今、この場所に。彼女の空間に。

 分かっていたように思う。思うけれども、改めて思い知らされるのは予想よりずっと哀しかった。哀しくて、それでもうこれ以上、どう思われようと構わない気がした。

「なぁ」
「ん?」
「いつまでそうしてるつもりだよ」
「何が?」
「もうすぐ夏休みだろ」
「そうだねぇ。そういえば受験生だわ
 彼女は憂鬱そうに窓枠に頬杖をつく。
「夏休みが終わったら、卒業まであと半年なんだぞ」

 頬杖を突いたままで彼女はこっちを見た。その視線がやけに真っ直ぐで平坦で、俺は思わず口ごもる。俺が何を言おうとしているか、勘のいい彼女はたぶん気付いている。
 だから何、と。あなたには関係ない、と。静かな視線が言っているけれど。
 俺は逃れるように目をそらす。関係なくたって、黙って見てるだけの俺だって苦しいんだ。

「無駄なんじゃないのか。あいつ、彼女いるんだぞ」
「知ってる」
「あいつ、彼女の事しか目に入ってないんだよ。お前がここから見てる事だって、あいつは絶対気付いたりしないよ」
「たぶんね」
「やめたほうがいい、あんな奴」

 重苦しい沈黙が降りてくる。グラウンドの歓声が遠く聞こえる。時折高く硬質な音が混じって、白く放物線を描いて消えた。


「あなたは、じゃあなんでやめないの?」
 いつの間にか振り返っていた彼女がそっと沈黙を破った。

「私は、意思なんかじゃもうどうにもならない。分かってるけど、どうにもならないよ」

 窓を背にして、影になって、顔がよく見えない。一面の夕焼けの中で、でも、彼女は笑ったように見えた。俯きがちに、照れたように、呆れたように、ひどく淋しく。
 そんな彼女はとても綺麗だと、思っていた。
 今まさに思い切りふられたのに、どこかぼんやりとそう思っていた。

 確かに、もうどうにもならないんだ。
 無駄だって、分かっていても。やめた方がいいって分かっていても。
 もうどうにもならない。
 この圧倒的な想いの前で、そんな冷静な判断は、まったく無力で。
 彼女が誰を好きでも。
 何一つ変らないんだ。

 そう認めてしまった途端、さっき張り詰めた空気がふいに緩んでいく。
 俺はゆっくり窓際まで歩いていって、彼女の隣に並んだ。
 グラウンドで活動する部活も徐々に引き上げる頃で、まばらになった生徒たちの中に、見覚えのあるユニフォーム姿を見つけた。

「あいつさぁ、一年中焼けてるよなぁ」
「うん」
「どこがいいの?」
「うーん…」
「背も普通。顔も普通」
「そだね」
「俺だってさぁ、負けてはいないと思うんだよね。室内競技だから白いけど」
 半ばマジで言ったのに、彼女が隣で小さくふきだしていた。

「万が一でいいからさ」
「ん?」
「あの野球ばかに見疲れたら言って」
「うん」
 彼女はまだ笑っている。
「俺もさー、たぶんしばらくは変らないから」
「わかった」
「ま、半年ぐらいだなー。卒業直前には後輩に告白されまっくてるはずだからー」
「さっすが男バス部長」
「まーね」
「ありがとう」
「おー」
「ありがとうね」

 いつの間にか夕焼けはずっと藍に近くなっていて、もうすぐ日が暮れる。
 最後まで残っていた野球部も片づけを始めて、長い一日が終わろうとしていた。
 あと数日で、完全に梅雨も明けるだろう。
 そうしたら、ようやく夏がやってくる。
 一学期が終わる。野球部の地区予選が始まる。

 高校最後の夏が来る。




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